昭和42年3月31日 夜の御理解 入力者=松本正宏
一心をたてればおかげになるとか、この方の道は真心一つで助かる道とか仰有る、一心とか、真心、確かにそうでございます、一心をたてればおかげになる、真心を込めれば、確かに神様がおかげを下さるですから、私どもはいかにして、一心を出すかという事を昨夜のご理解で頂ましたですね。
夜の御祈念にお参りした方は、覚えている事でございましょう、生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり、と天地書附けの一心に頼めというところを、昨日はご理解に頂ましたですね、一心とはどう云う様な風にすれば一心が立つかという事を頂いたですが、今日、私は真心一つでおかげになるとおっしゃいますが、真心という事なんです、真心一つでおかげになる。
ですから、ここんところを一つ追及していく、真心とは、真心とはと、それはそれなりにです、子供は、子供なり、年寄りは、年寄りなりに、その真心を追及する事なんでございます。
私、今日ある方のお取次ぎをさして頂いておった、その心安い方なんです、まあここには減多に参っては来ませんけれども、もう、私と友達の様にあるものですから、先生、一丁どうでんこうでん、おかげ頂かせて下さいちて、と云うて私がおかげを渡す様な、私とあなたは心安い中じやから、そんならあんたにおかげを上げましょうというふうに、力があれば問題無いんですけれど、おかげは神様が下さるものですからね。
私は、信者の願いであり、しかもその願いを真心を、又一心をお取次ぎさせて頂くのであって、おかげをお取次ぎさせて頂くだけであって私がおかげを授ける、いくら心安いから、先生ちょっと頼んどきますばいと、ほんとに私が持っとるもんなら、そういう心安い方でございますから、ほんとに云わんでも差し上げたい、ですけれども、そういう訳には参りません。
そこでその、身近であるとか、それはもう、親であろうが、子であろうがです、ほんの隣にあろうがです、それは同じなんです、その時、私はご心眼に頂ます事がですね、私の夫婦の居間が一番奥の方にございますが、入り口のお便所と、洗面所とがこう続いてございます。
その壁一重にです、こちらのスイッチを押せば、洗面所が電気がつくんです、その壁一重こっちのボタンを押しますと、便所の中が明かるうなるんです、そこんところを頂くんですけどね、もう壁一重じゃけんよかじゃんの、ああたもう、こっちにこっちで便所の方を押してから、洗面所の方の明かりを呉れと云うたって、それは駄目でしょうが、天地の親神様と私どもの関係というものは、その様なものですよ。
天地の親神様と云やあ、確かに、電気体の様なお方です、もう電源の様なものです、それを金光大神、そして、私ども、手続き関係、いわゆる金光大神様、教祖の神様、二代様、そして、三代様、四代様、そして、私どもが師匠筋にあたりますところの、次々のその手続き関係と云った様なものを、一つの電柱と例えますならば、それに線をこう張り巡らしてある様なもの。
天地の親神様から、私どもの所へこうやって、そこで私どもが、一部屋に電気の設備をしている人もありゃ、二部屋に百畳敷に、それこそ、百燭光をいくつも付けておる様な、設備をしておる人もあります。
そういう信心の大きさ、こまさ、又、信心の力の程度というのはございますすけれどもです、というたところでです、例えば、このお広前の電気をつけたいと思い、もうそばじゃけんで廊下のとでよかたいと云うちから、廊下のスイッチを押したっちゃ、お広前は明るくはならんのです。
そんなに、云うならば厳しい事ですけれども、又そんなにも又、見やすいものがね、ほんとにお広前に一杯に明かりが欲しいならば、お広前に付くところの繋がっているところのスイッチを押さなければ明かりにはならんのです、成る程、私とこの人が、心安いからという訳には参りません、もう隣近所に居るからという訳には参りません、もう紙一重だからという訳にいかんのです、よりよりおかげの元でありますところの、天地の親神様と、私どもの関係というのは、そう云う様な関係にあるのです。
私どもの力でもってしたならば、一俵のお米を搗かせて頂くのにそりゃ、それこそ一生懸命そのう、労力を要します、けれど、精米所に持つて行きますと、アッという間に搗けてしまうでしょう、ねえ、ボタン一つなんです、所が、精米所に持ってさえ行けばと云うてですね、いわば電気が来てないと云うか、いわば停電中にしたって、米は、いわゆる玄米が米になる様な事はありません。
そいからと云うて、あすこに機械があるからと云うて、こうこうやって回すばかりでは、やはりいけません、私どもはね、そういう様な事をしている様な事がある様です、真心を探さずに、只、おかげ、おかげと、真心を探さずに、一心というものを立てずに、真心00というものを探さずにです、只、このお米を早く精白したいという、早くままになりたいという願いを立てたところでです、それではおかげにならん。
それよりも、それはそれなり、私は、私なりにです、真心とはどこにあるかと、こう信じて探さなければいけません、もう、確かにこの天地の親神様というお方はですね、そういう私どもとの、天地の親神様との間の関係とは、そんな中なんです。
私が、こうやってお参りさせて頂いておるが、どげな気持ちでお参りしよるだろうかと、はたたして真心で参りよるだろうか、10円のお賽銭を奉りよるが、はたたして10円のお賽銭が奉られよるであろうか、今日のお道の新聞を見せて頂いておりましたら、ある教会に神経痛で大変困って居るおじいさんが参って来た、先生がお取次ぎをされると、非常に難儀をして困っておられる様である。
先生、私は恥ずかしいのですけれども、実はうちが貧乏で、お賽銭も上げられません、どうぞ、それでも助かりたいと思いますから、助けて下さいというて願われた、そこでです、それだけではいけんから、親先生が真心を一つ出さなければおかげにならんと云うお話をされた。
そして、あなたがここまでお参りをして来る途中に何と云う、川があろうが、あの川の川原におりて、あんたのこれは一番美しいと思う石を拾うて、お賽銭の変わりにしなさい、ホーこの石はきれいな、この石は見事な石だと云う様な石をです、拾うて来て、それをお賽銭替わりにして、又お供え替わりにさして頂いて、日々お取次ぎを頂かせてもらいなさい、毎日お願いに参って来なさいとこう云われた。
さあ、それからおじいさんは、毎日毎日その川原の中に自分が一番美しいと思う石を持ってはお参りさせて頂いたと、さしもの神経痛が、全快のおかげ頂いたという事、そこの、ご建築があります時に、それを氏子が持っていったその真心の石を、どこどこに使われたと云う話が、今日の新聞に載っておりました。
ですから、その真心の石を探すという事なんです問題は、ホー金光様の信心すりゃ石でんよかばいのと云うて、んなら、あなた方がです、川に落ちている石を、いくらきれいな石を拾って来なさったってそれはいけません。
ですから、そこにきは自分自身で、練らなければいかんのですね、ですから、例えば10円のお賽銭を奉らせて頂いてもです、こうしてお参りさせて頂いてもです、真心、真心と真心と云ういわば美しい心、清らかな心、というものを一つ本気で出さして頂こうと願わしてもろうて、お広前へ立たせて頂いた時に、果たして、私は真心で参って来たであろうか、このお供えをしておる10円に真心がこもっておるであろうかと、一辺反省して見なければいけない、そして、真心が少ないなあ、きたない心だと思うて居るなあと云うところはです、そこんところを詫びて行かなければいけません。
詫びる、そこんところに謙虚な態度と云うかね、もうほんとに、人間凡夫であい判りません、どこに御無礼、お粗末があるやら判りませんのですから、そこんところをお詫びさして頂いて、まあ10円のお賽銭でも、お供えさして頂くというところに、真心と共通するものが生まれて来るのです、その真心を愈々追及して行くという事なんです。
信心とは、もう真心一つで助かる道でございますと仰有る、ですから、皆さんが一心に、例えば拝ましてもらう、天津祝詞を奉上さしてもらう、拝詞を奉上さしてもらうね、それは一心を立てるためなんです、神様に一心を向ける一つの手段なんです。
皆さんが、例え10円のお賽銭をお供えなさるなら、その真心の表現をなさるのです、ですから、その真心の表現が、きたないものが伴うていてはいけませんから、それを水で清める様に、お詫びという言葉をもって、お詫びという心をもって、それを清めるのです、そして、愈々真心の追及をさして頂くという事。
信心とは、いわば芸術家が、美を追求していく様に、信心さして頂くものは、愈々有り難いというものを追及していくのだと、真に有り難いと思う心、すぐに御影のはじめと仰有る、その有り難いという心を、追及するのだと、その有り難いという心を追及する要諦として、まず真心の追及をしなくてはなりません。
不思議なんです、自分が真心込めてさして頂くところに、確かに喜びが与えられるんです、不思議なんです、真心を込めれば込めるほど、それが小さいより大きければ大きいほど、そういう喜びは、大きいのです、その喜びを追及して行く事が信心なんです。
これは、私と、父とか母、子供たち、もう私と親子の中じゃから、簡単に私がと云う訳にはまいりません、親父であろうが、子であろうが、取次ぎ者に対してだけはです、やはり金光大神のお手替わりとしての頂き方というものが出来なければです、出来ません。
それだから、家内なら家内がです、あぁお父さんお願い致しますよと云って、ならもう、方法の無かけんで、それでよかたいと、云うて来たと、云うてはいかんのです、ですから、家内は家内としての真心というものが、私は研究されていかなければ、私は頂かれない。
昨日丁度10分位の間隔を置いてから、熊本から2件の方達の、電話がかかってきた というところから、熊本の、それから熊本市内の方でした、前の日にアパートを経営しております2人の人が、そのう家を出られたんですねぇ、ですから先生、後の事をどうぞ宜しくお願い致しますという事であった、私が前の日の電話でのお願いがあったその時に、私は自分では一つも覚えんのですけど、早速おかげ頂く様にお願い致しましょうと、私は申したそうです、そしたら、その翌日電話がかかってまいりまして、先生その晩早速2人の方が借りに見えました、ほんとにここでほんとに、親先生が早速と仰有って下さいましたが、早速おかげ頂ましたと云うて、そのお礼のお届けがあったんですけれどもです、さあ電話口でもいいのですよ、一心をもって、真心をもって、そのかわりにその方は電話口に出る前に、まず御結界でご挨拶する様に、ご挨拶するそうです、電話機の前で。
そして、自分の心の中にこの御結界の様子を心の中に浮かべさして頂いて、親先生ただいまからと、云う気持ちなのです、そして、10円のお賽銭を奉らせてもろうて、お初穂を奉らしてもろうて、そして、お取次ぎをお願いしますと云う、それから、お願いが始まるのです。
成る程、おかげ頂く事の訳が判ります、電話を、私その後に参って来た方に、その話しをしましたら、私が、四国の方で、四国の方なんですね、から今日参って来た方がございましたから、四国の方では、電話などしてはおかげにならんと、先生から怒られます、そら、そばに居ってからかくるなら怒られるくさ、便利じゃけんかて云うて、そんな事ではいけません、そら怒られるのが当たり前だと、そばに居るなら、真心込めての矢張りお参りをして、お取次ぎを頂かせてもらわなければいけん。
だから形では、どうとかと云う事は云えんのです、問題はその内容であり、問題はその一心なのである、一心を立てて、おかげを頂くと云う事、真心込めておかげを受ける、真心一つでおかげになると仰有るのでございますから。
矢張りもう、頭もようなからなければ、器量がようなからなければ、もう長年参りよらなければと云うのはないのです、それは、その人なりの一心である、その人なりの真心をもって、神様は引き止めて下さる神様なんです。
その真心を追及せず、その真心を探さずして、お願いをする事は、丁度今日、私がお知らせを頂ました様に、便所に明かりが欲しいというのに、洗面所の壁一重じゃけん、よかよかでボタンを押しておる様なもんじゃないでしょうか、それでは、便所は明かるうはなりません、この辺を一つ判らせて貰わなければいけませんね。
どうぞ。